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緒方春朔の偉業を讃える

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ジェンナーに先立ち種痘に成功

 筑前の秋月でエドワード・ジェンナーに先立つこと6年前に、日本人で初めて種痘に成功し、これを全国に普及させようと努力し、天然痘予防に尽力したわが国種痘の始祖、緒方春朔について紹介したい。

緒方春朔像(藤浪剛一著『医家先哲肖像集』) 天然痘(痘瘡,疱瘡)という病気は、今は完全に根絶され、文献にしか見ることが出来ない病気になってしまったが、天然痘の病魔に対する、当時の人々の恐怖のほどは、現代の私共には想像もつかないものであったであろう。「天然痘にかかったことのない子供は、我が子と思うな」という言葉が、いつの時代からかいわれるようになったほど、多くの子供達の命を天然痘は奪っていったのである。

 ところで、古代の人々は、天然痘は一度かかると二度とかからないことに経験的に気付いたのである。この事実から、先人達は、予防法として天然痘患者の痂皮を、未感染者に種える人痘種痘法を考え出したのである。種痘法には、この人痘種痘法とジェンナーが発明した牛痘種痘法の2方法がある。緒方春朔が、初めて日本で成功したのは、この人痘種痘法で鼻旱苗法という方法であった。

 緒方春朔は、諱(いみな)を惟章といい、済庵または洞雲軒と号した。寛延元年(1748)久留米藩士小田村甚吾(初名瓦林清右衛門)の二男として久留米に生まれ、久留米藩医緒方元斉の養子となる。母は久留米藩士小田村甚兵衛の女である。家業を継ぐため長崎に遊学し、吉雄耕牛のもとで蘭医学を学んだ。天明年中(1781〜1788)久留米を去って、父祖の地である秋月に居を移した。はじめ上秋月村の大庄屋天野甚左衛門の離れに寄寓していたが、寛政元年(1789)8代藩主長舒に召し抱えられ、藩医となった。

 春朔は長崎に学んでいたときから痘瘡に関心を持ち、中国から来日した李仁山の種痘の話を伝え聞くにおよんで、中国から輸入された『醫宗金鑑』を手に入れ研究するところであった。『醫宗金鑑』は清の勅纂による一大医学書で、この内の第60巻が痘科の部で「種痘心法要旨」となっていた、春朔が最も心をひかれたのは、この『醫宗金鑑』で、常に身近に置いて研究の資料とした。

エドワード・ジェンナー 春朔の成功した種痘法は、人痘種痘法の旱苗法または鼻旱苗法といわれるものである。『醫宗金鑑』の旱苗法は、痘痂を粉末にし、これを銀管中に盛り鼻腔内に吹き入れる方法をとっていたが、春朔は研究の末、この方法も、吹き入れ方がまずいと涙が出たり、むせったりして、せっかく入れた痘痂粉末を吹き出してしまい、うまくいかないことがあるとし、吹き込む方法ではなく、木のヘラに痘痂粉末を盛り、これを鼻孔より呼吸とともに吸い込ませる方法や銀の曲管を創作し、これより痘痂粉末を鼻腔に流し込む方法を考案したのである。また、その他いろいろと『醫宗金鑑』の方法を改良し、春朔独自の種痘法を開発した。春朔は「これを用いるに百発百中、応ぜざるは一つもなし」といっている。

《エドワード・ジェンナーの説明》

二人の子供に初の試み

 寛政元年(1789)の冬、秋月領内に天然痘が流行し、翌年には更に盛んとなった。町なかの酒屋坂口某の家に天然痘にかかった者があったが、きわめて軽く順症であったので、その痘痂を納め、大庄屋天野甚左衛門の申し出により、この2児に実験を試みた。2月14日、子供達を診察すると、健康で種痘には最適の状態であったので早速種痘を行った。それから7日後の2月21日、次男が熱が出たと知らせてきたので、早速行って診察した。その症状は「頭痛シ、鼻塞リ、声重クシテ恰モ風寒ニ感冒スル者ニ似タリ」という状態であった。2月20日の晩、長女も同様の状態となって、それから3日して痘が出た。しかし軽症で心配のない状態で、11日後には痘はかれておさまった。これを聞き知った同村庄屋本田某の懇願により、その2児にも種痘を行い、さらに藩主の医師仲間の協力によって、それぞれの子供たちへも試み、種痘法をより確かなものにした。

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