春朔は寛政5年(1793)、本邦医学史上、初の種痘書とされている『種痘必順辨』を著している。寛政8年(1796)には『種痘緊轄』、『種痘證治録』を著した。これらを読み合わせれば、春朔の用いた鼻旱苗法という種痘法の全貌が明らかになるとともに、種痘研究の苦労、種痘成功の感動、種痘を広めるための悩みなどがひしひしと私たちの胸を打つ。『種痘必順辨』には「余ガ試ル処ノ者、既ニ千数ニ及ブトモ、未ダ一児ヲ損セズ」と記している。この『種痘必順辨』に目を通してみると、多くの人々を悲しみに陥れた天然痘から救おうと、種痘法を開発し、それを自分だけのものとせず、広く人々に伝え、正しい種痘法を普及させようと願い、この種痘書を出版した春朔の思いがふつふつと伝わってくる。
この当時の先端医療である「種痘」を研究し、実施し、これを広めようとしていく中で、春朔の努力、戦いも想像を絶するものがあったであろう。非常に忌み恐れられていた天然痘という病気を、軽いとはいえ発病させて免疫を作るという、当時の人々には、考えもつかないことを押し進めていくのである。とても信用する医者など最初はいなかったであろうし、中には春朔を精神異常者扱いするものもいたであろう。
そこで春朔は、種痘を押し進めていくには、医師達はもちろん、世間の人々にも理解させねばならないと考え、そのために一般の人々にも解りやすい種痘書『種痘必順辨』、『種痘緊轄』を出版したのである。それは当時の医学書は、漢文で書かれたのが普通であるが、この種痘書は和文で書かれている。彼が著した医師向の種痘書『種痘證治録』は、やはり漢文で書かれている。
その『種痘必順辨』の序文には、この書物は医師のためだけに書いたのではない、世間の人々の疑問を解くことを主眼としているとして、一般の人々にも解りやすく、片田舎の人々にもたやすく読めるように、また、意味が分かりやすいように国字(和文)で書いたと述べられている。
また、その序文の中で、この種痘法の出典を明らかにしている。「この術は、もともと私の秘法ではありません。これは中国の清の勅纂による『醫宗金鑑』という本に出ていることで、広く民を救う公のものであります」と述べている。一般にこの時代の習慣として、出典を明らかにせず、神格化することが多かったものである。
しかし、春朔は、はっきりと出典を明らかにし、いいかげんなものでないことを世間の人々に知らせ、また、中国でも行われていることを知ってもらい、この種痘法を早く信じてもらおうとしたのであろう。