暮もおしせまっていたので、正月早々、甘木歴史資料館の川述昭人副館長と東京に飛んだ。寄贈されたものの約2/3にあたる8種14冊の書物が発見されていた。記念事業の資料展で公開するために借用して持ち帰った。
残念ながら、一番発見が望まれていた春朔の種痘用器具はその中に見つからなかった。大塚恭男所長にこの点を訪ねたら、北里研究所にはないので、もしかしたら東京大学医科学研究所に遺っているのではないかということで、大塚所長は、東京大学医科学研究所の小高健教授に電話し、会うように手配してくださった。帰りに北里研究所の資料館を見て行くようにと先生が案内され説明を受け 東大医科学研究所に向った。
東京大学医科学研究所の小高健教授は、細胞遺伝学研究部の教授で、東京大学医科学研究所の歴史を調査研究されておられる方であった。教授の話では、伝染病研究所の北里柴三郎所長時代の資料ないしは研究備品、器具など全く遺っていないということであった。恐らく、北里研究所設立にあたって全部移転されたものと思われる。これ以上の調査を北里研究所にお願いする訳にはいかないので、ここで種痘器具および書物4件の行方が不明のままとなった。
同年4月になって、記念事業のシンポジウムの講演依頼に、順天堂大学医史学研究室の酒井シヅ教授に会いに行った。その折に、春朔の遺品の件について話をした。8種14冊が発見され、4種4冊と種痘器具が発見出来なかったことが残念である旨話をしたら、さすがと思ったが、学者の直感で、「ちょっと待って下さいよ」といわれながら、書棚から京都大学附属図書館の『京都大学富士川本目録』を取り出され、しばし目を通されて「ここにありますよ」といわれ、その4種4冊がその目録に載っているではありませんか、大変驚いたものであった。この中に余り知られていなかった春朔の第3の種痘書『種痘證治録』も発見された訳である。
これは、あの有名な『日本医学史』を著わした富士川游博士が、調査研究のために、色んな所から種々の資料を持ち出し集められ、先生が亡くなられた後、京都大学附属図書館に寄贈され、富士川文庫として遺されてあるということである。もしかしたらということで、この富士川游文庫を調べたら、この中にこの4種4冊があったという訳である。早速、京都大学医学部図書館に、酒井シヅ教授から、コピーをお願いして戴いた。
一番発見が望まれる種痘器具は、未だ北里研究所の倉庫に眠っているのであろうか。将来、発見されることが望まれる次第である。
これらの発見された資料は、記念事業の資料展に展示公開され平成3年9月に、北里研究所に返還されて、現在、同研究所に保存されている。
次は、甘木市川原町出身で、春朔の遺品の伝染病研究所への寄贈の橋渡しをされ、天然痘ワクチン製造の発明者として有名な梅野信吉博士について紹介したいと思う。