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緒方春朔史談
其之参−「春朔の遺品について」
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遺品を追って

1.遺品を追って

 緒方春朔の遺品および資料は、春朔の直系の子孫が緒方駒雄(初代甘木朝倉医師会長)の次の代である緒方無才(6代目)までで途絶えているためか、余り遺っていない。緒方春朔の著書である『種痘必順辨』の存在が確認されているものについては、緒方春朔史談其之壱で述べた。その外は、秋月の郷土史家三浦末雄氏が春朔の子孫である某氏から譲り受けたとされる種痘免許証、入門誓約書、書簡など10数点の遺品および資料が遺っている。
 この三浦末雄氏所蔵資料の中に、当時の国立伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)から、春朔の5代目にあたる緒方駒雄宛に出された書簡がある。 封筒の裏の差出人には伝染病研究所と梅野信吉の名がある。

「拝啓、先般別記の書物ならびに器具を御寄贈戴きましたことに感謝いたします。今回ドイツ万国衛生博覧会に出陳した後は、永く当所に保存記念いたします。先ずは御礼を申し上げる次第です。敬具」

旅のイメージ『冨嶽三十六景』(部分)葛飾北斎ということのようである。
 この伝染病研究所は、当時、所長は北里柴三郎で、その部下で痘苗製造部長の地位にあり、天然痘ワクチン製造発明者として知られている梅野信吉(甘木市出身)がいた関係で、この梅野博士の橋渡しで、春朔の遺品および資料はこの伝染病研究所に寄贈されたものと考えられる。
 国立伝染病研究所は、大正3年(1914)、大隈内閣の時、行政整理の一環として、内務省から文部省に所管替えとなった。伝染病研究所長北里柴三郎は、伝染病の研究は衛生行政と不可分のものであるから、伝染病研究所の所管は内務省であるべきであると、かねがね主張していたので、北里柴三郎は、文部省所管に反対して直ちに伝染病研究所を辞した。北里は辞任翌日、新たに私立北里研究所を設立した。伝染病研究所で、痘苗の研究製造を担当していた梅野信吉部長は、他の職員と共に辞任して北里研究所に移った。この移転に伴い、種々の研究材料器具や資料も伝染病研究所から北里研究所に移されたものと想像される。
 この緒方駒雄から寄贈された春朔の遺品も、伝染病研究所にあるのか、北里研究所にあるのか存在が不明であった。熊本正煕先生は著書の中で「大正4年(1915)、北里研究所の創立にともない、そこに移されたというが、東京大空襲の戦災にあい焼失したとも聞く、誠に残念である」と述べ、関係者の間では、これらの遺品の発見は諦められていた。

 先般の緒方春朔種痘成功200年記念事業の準備段階で、記念事業実行委員会は、この機会にもう一度調査してみようということになった。
 まず、手島仁先生と共に種痘全般の資料がそろっている岐阜県羽島にある内藤記念くすり博物館に行き、『天然痘ゼロへの道』の編集者でもある館長の青木充夫博士に会った。記念事業の資料展のための関係資料を見せてもらうとともに、この緒方春朔の遺品調査の件を相談してみた。館長から、北里研究所の附属東洋医学総合研究所の大塚恭男所長に相談したらいかがと助言を戴いた。早速、平成1年9月に、大塚恭男博士に調査依頼の手紙を出した。勿論、伝染病研究所から緒方駒雄あてに送られた書簡のコピーと共に、今回計画されている記念事業の計画書も同封し、この記念事業の機会に是非調査をお願いしたい旨懇願の手紙を出した。余り期待はしていなかったが、調査だけはしてみたかった。約4ケ月経過した同年12月暮、大塚恭男所長から直接電話で発見の知らせを受けた。日本医史学会の重鎮でもあられる大塚所長の「ありましたよ」という興奮された声に、しばし応答の声も出ない位に驚いた。ないでもともとと、もう一度無いことを確認しようと調査依頼したものが、発見されたのである。記念事業実行委員会は、この報に接し、この発見で、今回計画されているこの記念事業が成功裡に実行される確信が持てたものであった。

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