蘭方医達の長い間の夢がかなって、モーニケの斡旋により日本に活養した牛痘苗は、到着後どのように植え継がれていったのだろうか。最初は、種痘された者の腕に生じた痘疱から、痘漿または痘痂を採り、これを次の種痘を受ける者の腕へと植え継がれていったのである。このように人伝牛痘種痘法により伝えられた痘苗(人伝牛痘苗)は、採取苗を介して人の伝染病を伝播したり、また採取される児童に苦痛を与え、その児の種痘経過を妨げたりしたのみならず、得られる痘漿の量も微々たるものであった。また、人伝の間に発痘力が衰えることもしばしば見られた。
そこで明治24年(1891)以降は、人の腕に伝えられて来た人伝牛痘苗を、再び牛にかえし、牛体に発生せしめた痘疱(再帰牛痘苗)を用いて種痘を行うようになった。しかし、牛から牛へと継代していくと、再び発痘力が衰えるため、種痘用の再帰痘苗を作るのには、そのつど、再帰痘苗の接種を受けた小児から痘漿を採集し、これを種苗として牛に接種せねばならなかった。
明治34年(1901)になり、梅野信吉が、痘苗の牛継代もある要件の下に行うならば、牛体を何継代しても発痘力を減衰することがないことを発表し(痘苗犢体継続法)、その後、牛体のみを通過継代した牛伝牛痘苗が用いられるようになった。
北里柴三郎は、再帰牛痘苗の犢体継続ができないとされているのは、継代に用いる種痘苗が無菌でないことによるのではないか、種苗中の雑菌が病原体固有の発痘力を減殺するためではないかと考え、この研究を梅野信吉にさせ梅野は痘苗犢体継続法としてその成果を発表したのである。
梅野信吉の、犢体継続のための要件は次の3つである。
(1)無菌の原苗を用いること。梅野は犢体から粗苗を採取する直前に、発痘面を
石炭酸水で洗滌し、また、製造した痘面に石炭酸を添加することにより、
無菌の原菌を作製した。
(2)原苗を稀釈して犢体に接種すること。再帰牛痘苗は、人伝牛痘苗に比べ、
痘原体の数が多いので、密発を妨げない程度に稀釈した。
(3)犢の接種面積をできるだけ制限すること。犢の体重約4kgにつき15平方cm
の接種面積を標準とした。
梅野信吉は、犢外接種面を苗代に、原苗を種子に、原苗中の雑菌を播種する種子に含まれる雑草の種子を想定したのである。その後も引き続き犢体継続実験を行い、犢体のみを数百代継続しても、痘苗の発痘力は衰えないことを発表した。
犢体継続法の完成は、痘苗製造に当たり痘児から痘漿を採取して原苗とすることを不要とし、また、原苗の確保、保存を容易にし、わが国の種痘行政に大きな変革をもたらした。すなわち、当時は製造用の人伝牛痘漿を採集するため、痘苗製造所に種痘課を置き、また府下および近県に出張所を置いていたが、その必要がなくなり、いずれも全廃された。それのみか、原苗が確保されて痘苗の量産体制が確立したので、大阪と東京の2ケ所の官立痘苗製造所の中、大阪痘苗製造所が廃止され、東京痘苗製造所のみとなり、名称も単に痘苗製造所と改まった。科学研究の成果が行政の合理化をもたらした先駆的1例であるとされている。
梅野信吉が犢体継続法を確立したことにより、わが国の痘苗は、主に同法を応用して製造されるようになった。
この外、梅野信吉博士の痘苗に関する研究については、添川正夫著「日本痘苗史序説」に詳しく述べられている。最後に同書から「痘苗関連年表」の梅野信吉に関連する年代の部分を転載し、梅野信吉博士の業績の一端をうかがい知る手だてとさせて戴きたいと考える。